古舘寛治とgiftedたち

ゲスト:海野敦さん

ゲスト:海野敦さん

「助監督として、“みんなが気持ちいい現場”をつくりたい」

公開日:2017.6.11

瀬々敬久、黒沢清、熊切和嘉、沖田修一ら、映画界のそうそうたる名手たちに愛される助監督がいる。それが今回のゲスト、海野敦さん。古舘寛治が才人(gifted)たちと語るシリーズ第5弾は、現代日本映画の“現場”をつぶさに見てきた、百戦錬磨の映画人との対話。謎に秘められた助監督という仕事にまつわる対話から見えてくるのは「クリエーションをすることとは何ぞや」という問いに対する、リアリティーあふれるヒントだ。これを読めば、あなたの今後の映画鑑賞が変わるかもしれない……!?

古舘

まったくね……(笑)。先ほど「脚本に書いてあることを具体化する」とおっしゃいましたが、それこそ俳優もそうですけれども、クリエーションにかんして人間がやることは、簡単にいえば「フィクションをリアルに見えるようにつくる」ことですよね。その上で、助監督は時間のスケジューリングや衣裳など、さらなる“現実”と戦う仕事のではないかと思うんです。

海野

本当にそうですね、まさに“リアルのための現実”に取り組んでいるのかもしれないです。天気の判断もしなければいけないので。

古舘

そうそう! 助監督の人は、今どこに雲がいるかわかるアプリのようなものを、みんな持っていますよね。もうすぐ雨雲が来るからって、場所をとっさに変えることもある。あれ、すごいですよね!

海野

明日はほぼ雨だと分かっているのに、そのまま撮影します、というわけにはいかないですから。もちろんプロデューサーなどと相談はしますが、前日のうちに中止にして、何日に延期しましょうといった最終的なジャッジもしていますね。

古舘

そうやって現場をさばいていくわけですね。すごい、やっぱり僕には出来る気がしません……(笑)。海野さんがそうした助監督の仕事に就かれるようになった歩みを伺いたいんですが、具体的には映画美学校に入学したことが大きいんですよね?

海野 画像

海野

そうですね、映画美学校のフィクション・コースに入ったことが、この道に進む直接のきっかけでした。順を追って話すと、生まれは愛知県の安城市というところでして。僕が住んでいた頃には、安城周辺には映画館もなかったんですが、大学受験の浪人時代に名古屋の予備校に通っていたので、駅周りの映画館に行くようになりまして。大学は大阪だったんですが、集まっている人間が楽しかったこともあって、映画研究部で8ミリ映画を撮っていました。 その後、1999年に大学を卒業するものの、就職もせずにフラフラしていて……先日「大卒の就職率が約98%で過去最高」というニュースを見てビックリしたんですよ(笑)。自分の頃は大学を出ても就職しない人がいっぱいいましたが、時代が変わったんだな、と。

古舘

驚きました、すごい数字ですね。僕の頃はバブル真っ只中だったから、就職したかったらいくらでもできるような時代だったけれど。今の方が就職難かと思っていました。

海野

きっと思考が変わってきたからだと思うんですけれども、今の若い人たちはすごいですね。ともあれ僕は映画の仕事には就きたかったのだけど、きっかけは何もなく……という状態で大阪にいたら、映画美学校のことを知りまして。ちょうど当時、僕がよく作品を観ていた監督さん――たとえば黒沢清さんや青山真治さんといった方々がそこで教えるというので、「これ、行けば知り合えるかな」と(笑)。

古舘

なるほど、それで映画美学校入りなんですね(笑)。

海野

根がズボラなもので、興味あることじゃないと自分は仕事しないなとはわかっていたので(笑)、映画の道に進みたいとは思っていた。かといって、監督のなり方とか、映画業界への入り方ってよくわからないじゃないですか。今だってほとんどのスタッフはフリーランスで、会社に所属しているわけではありませんし、映画会社も演出部として人を常に雇っているのでもありませんから。

古舘

何か確固たるルートがあるわけではないですもんね。

海野

だったら、この映画美学校の授業はチャンスだと思ったんですよね。9月くらいから週2、3回で授業が始まって翌年の春くらいに終わるという特殊なスケジュールなんですが、それに合わせて99年の夏に東京に出て来たんです。

構成・文:宮田文久
写真:高野由香里