古舘寛治とgiftedたち

ゲスト:深田晃司さん

ゲスト:深田晃司さん

「『淵に立つ』のようなオリジナルのつくり方は、演劇から学んだ」

公開日:2017.6.10

映画『淵に立つ』コンビ、再び! 古舘寛治が才人(gifted)と語る対談シリーズ第四弾は、映画監督・深田晃司さんがゲスト。青年団では古舘と同じ釜の飯を食い、その後もほとんどのサンプル作品を観続けてきている深田さん。深田作品の多くに出演している古舘との間で、オリジナルなものづくりを追求してきた二人ならではの対話が繰り広げられた。

深田

この対談連載は、古舘さんがホストの立ち位置になっているんですか?

古舘

うん。でも、二回目のゲストだったキムラ緑子さんがガンガン鋭い質問をしてくださって……もうそうした立ち位置は崩壊しているかも(笑)。そんなシリーズですが、今回は付き合いも長い深田君にお願いした次第です。

深田

ずっとサンプルの舞台の映像記録も撮影させてもらっていますし、他のゲストの方々に比べても、“サンプル歴”の長さだけは負けない自信がありますね(笑)。青年団でもずっと一緒でしたから、そう思うと古舘さんと知り合ってから長いですね。

古舘

僕も深田君については散々知ってはいるんですが、改めて本人の口から聞いてみたいこともあって。まず初めの質問なんですが、今は映画監督だけれども、もともとは小説も書けば絵も描く、ひとりの個人でできるようなことを目指していたということを聞いたことがあるんです。なぜそこで、映画を選んだのでしょうか。

深田晃司さん 画像

深田晃司さん プロフィール

1980年、東京都生まれ。大学在学中に映画美学校入学。2002年の『椅子』で初長編監督。05年、平田オリザ主宰の劇団青年団に演出部として入団。08年『ざくろ屋敷』といった作品を経て、10年の『歓待』は東京国際映画祭日本映画「ある視点」部門作品賞などを受賞。13年『ほとりの朔子』はナント三大陸映画祭 グランプリ金の気球賞&若い審査員賞を、続く15年の『さようなら』はマドリッド国際映画祭ディアス・デ・シネ最優秀作品賞を受賞。16年、『淵に立つ』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞に輝いた。

深田

小学生くらいの頃から、ものをつくる人間になりたいという思いは強かったんですね。そして、無駄に多趣味だった。ピアノも習っていて、作曲家になりたいという気持ちもあったから、大学2年生くらいまでは習っていて……まったく成長しなかったんですけど(笑)。
絵も描いていたからイラストレーターや漫画家になりたいという思いもあり、横山光輝の漫画『三国志』やアレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』にハマった時には小学校の自由課題で、それらを足して二で割ったような小説を書いたり……。ゲームも好きだったので、RPGをつくるゲームクリエイターになりたいとも思っていたかな。

古舘

すごいね、しかも全部ひとりでできそうなもの。というより、ぶっちゃけていうと、深田君はみんなで何かをやることよりも、ひとりでやる方が性格的にも向いていそうな雰囲気があるじゃない?

深田

本当にそうです。むしろ、最初はそれしか選択肢がなかった。文化祭のような「みんなで何かをやる」ことはひたすら苦手でしたし、小さい頃は今以上に早口で、どもりもひどかったので。ただ、小学生らしい多幸感も持ち合わせていて、自分は何でもできるぞという自信もあった。ゲーム、小説、漫画、イラスト、作曲、すべての分野において、偽名で一流の人間になって、50歳ぐらいの時にそれらがすべて一人の人間の仕業だったということを世間にバラして驚かせる、なんてことを考えていました(笑)。結局、中学高校で自分の才能のなさに気付き始めて、劣等感の塊になっていったんですけど。

古舘

いわば、消去法で映画監督になったというところもあるのかな?

深田

いや、映画に関しては、観るのは中学生の頃から死ぬほど好きで。ただ、たまたま父親が持っていた昔のVHSに入っているような映画、それこそ60年代より前の映画を観ることも多くて、映画と言えば小津や溝口、あるいは海外のハリウッド映画やヨーロッパというイメージで。日本の学生映画や8ミリ映画の世界は知らなくて、映画をつくるというのは自分とはまったく違う世界の出来事というイメージだったんです。それがたまたま、大学に入ってからユーロスペースで映画美学校の夏期講習のチラシを見つけた。「まさか映画をつくる側にまわれるとは……」と思いながら入学しましたね。

古舘

そのチラシを見つけなかったら、今頃は何をしていたんでしょうか?

深田

いやあ、どうですかね、野垂れ死んでいたんじゃないでしょうか……(笑)。

古舘

いやいや(笑)。でもたしかに、映画監督になるということは、他のジャンルに比べては年齢的なリミットというのもないですしね。僕だって、この年齢で未だに映画監督になりたいって思うことがあるくらいですし。

深田

おっしゃる通りで、映画監督というのは結果を出すまで時間がかかることもあるし、40代でも新人と言われるのがゆるされる職業でもありますから、そのあたりはあまり危機感を抱くこともなく、20代は過ごしていましたね。

古舘

なるほど。そこから青年団に入るまではどういう流れだったんだろう? 平田オリザさんの本を読んで面白かったという話は聞いたことがあるけれど。

深田

オリザさんの本を読む前に、自分が22歳の時につくった『椅子』(2002年)という自主映画がありまして、その主演が井上三奈子さんだったんですね。青年団には『月の岬』という作品でゲスト出演していた方なんですが、ちょうど『椅子』に出てもらった直後に、青年団に入団したとおっしゃっていて。今度やるから観に来てと言われて、最初に観た青年団の作品が、2003年3月に上演された『忠臣蔵・OL編』でした。 それまでも、自主映画を撮っていると誘われることも多くて、学生演劇みたいなのも観に行ったことはあったんですが……ことごとくつまらなかったんですよね(笑)。

構成・文:宮田文久
写真:高野由香里